48時間送検


号令で起床して掃除

昨日、取調べの途中の昼食に戻ったときに女性房から移動したこの3房は、7名が就寝できて、隅にはトイレがあるから、広さは8畳ちょっとはあるのかも。
このくらいの大きさの房が、新宿警察署の留置場には7つか8つほどある。

あとは4名ほどが定員の房もあるようだから、新宿警察署の3階には少なくとも50名以上が寝起きしてることになる。
この人数が多いか少ないかはわからない。

やがて蛍光灯がパッと全灯になって「きしょぅぅ~」と号令が響いた。
とたんに、競争のようにして皆が飛び起きて「おはようございます」と口々に挨拶しながら布団を三つ折にする。

21時の消灯から朝の7時まで、10時間も布団で横になるから、寝すぎた気もする。
膝がぱきんっと音をたてた。

朝だけは、留置係以外の署員が7名か8名ほど鉄扉の向こうから入場してくる。
洗面のために房の外に多人数の留置者を出すので、もしも誰かが暴れたりしたときに備えて集まるのか。

「おはよう!」と今日の当直のやすしが、・・・おととい入場した際の身体検査をした留置係を仮にやすしと名付けたが、正式にやすしとする、・・・で、そのやすしが房の鉄格子の扉を解錠した。

扉が解錠されるのは一房づつ。
各自が布団を抱えて倉庫まで運ぶ。
そのまま倉庫にある、バケツ、ほうき、雑巾、たわしを皆で持ち合って房内の掃除となる。

これらを仕切っているというのではないが、皆を先導するのがスキンヘッドのがっちり体型の50代。
腕には和彫りの刺青があって、顔面が暴力を帯びている。

称呼番号は205番。
皆が『205番さん』と呼んでいて、当人も『はぁい』と陽気に返事をしているので、自分もそれに習っている。

房内は出入りが多い。
1晩のみで出てく者もいる。
その度に名前を伝えるのも面倒なので、称呼番号で呼び合うのも変なことでもなかった。

以外に陽気な205番が「みんなでローテーションしているから、今日はおねがいね」とトイレのタワシを手渡してきた。

洗面して点呼

掃除が済むと5分間の洗面。
石鹸は使えるが、かみそりや整髪料の使用はない。
就寝前の洗面で外して預けていた眼鏡を受け取って洗面は終了。

一房づつ、全ての房の洗面までが終わると、鉄格子に向かい着座して点呼。
点呼が終わると朝食となる。

やすしがやってきて「332番、今日、送検だから先に朝メシくばるな、これ、お茶な。しょうゆかソースいるか?」と自分には朝食が配られた。

毎食の仕出し弁当を、・・・これは官弁という、その官弁を出し入れする食器口が、鉄格子の下部に小さくある。
そこから官弁が入れられた。
座る場所が食器口の前が定位置となっている205番さんが「ほい」と手渡してきた。

食べ終わった頃に、せっかち気味のやすしがきて「332番、ちょっと早いか、ああ、食べたのか?まあ送検だからな、でるぞ」と扉をがちゃがちゃとした。
205番さんが「いってらっしゃいっ」と声をかけてきた。

集中はワゴン車で、個別は護送車で押送

警察は容疑者を逮捕して、捜査続行のために48時間以上の勾留をする場合は、裁判所へ10日間の勾留状の請求をする手続きが必要となる。
容疑者は警察署から地検へ送られて、隣接する裁判所を回って手続きが行なわれる。

これが中学校で教わった三権分立というのもだろうか。
よくわからないが、この『ヨンパチ送検』という手続きは1日ががりとなる。

ヨンパチ送検とは別に、検事の取調べがある『検事調べ』の人員も加わり、その日の新宿警察署から東京地検への押送人員は15名ほどとなっていた。

「ええ?集中が後?個別が先?」と場内の入口の鉄扉の覗き窓ごしに、甲高い声のやすしが留置事務室とやり取りをしていた。

『集中』とは、1団を護送車に乗せて押送すること。
『個別』とは、ひとりをワゴン車に乗せて押送すること。
共犯者が多い者が個別となるようだった。

それと世間の関心が高い事件で、警察が逮捕をマスコミ発表している容疑者も個別となり、警察署を出たあとはテレビのニュースでよく見る《 送検されるA容疑者 》といった映像としてカメラで撮られる状況となる。

ニュースにもならない事件の、マスコミ発表にも値しない容疑者である自分は、集中の一列に並ばされた。
手錠をはめて腰縄を巻かれて、さらに前後の容疑者と連結される。

やすしを含めた留置係はせっせと結わえていくのを続けて、やがて集中の一列は数珠つなぎとなった。

「私語はしないこと!」と注意があった。
先頭が引かれて、一列はゆっくりと進む。

手錠して腰縄で数珠繋ぎとなって護送車へ

「解錠準備異常なし!解錠!」の号令で、留置場の入口の鉄扉が重そうに開いた。

数珠つなぎに一列は、全員、ヨレヨレのジャージ姿だ。
髪がボサボサな者がほとんどなのは、整髪料の使用が禁止になっているし、鏡もないし、風呂にも入ってないため。

一列は無言のまま。
階段を降りて、廊下を進み、地下駐車場まで歩く。

先頭は、かなりゆっくりと歩かされる。
全員の歩調はばらばらで、繋がれている間隔は狭い。
うっかりすると、前の者の踵を踏んでしまう。
先のほうで舌打ちがして「あ、すみません」との声も聞えた。

自然とつま先を外側に向けて、1歩1歩が大振りでゆっくりとした歩き方となっていく。
ばらばらだった全員の足は、がに股でぺたんぺたんと便所のサンダルの音をさせて進むようになった。

広めの地下駐車場には、エンジンがかかったままで護送車が停まっていた。
数珠つなぎのまま乗り、所々でロープはほどかれて、端はシートに結わえ付けられる。
護送車はスロープを上がり、東京地検へ向かう。

護送車
護送車の窓はスモークとなっていて外から中は見えない

護送バスの中では全員が無言。
自分は窓際の席だった。
乗る前から『窓際になれ!』とお祈りしていたのが通じた。

窓はスモークとなっていて外から中は見えなくて、外には金網が装されている。
スモークと金網の窓越しに真夏の町並みを眺めていると、まだ2晩なのに、いや、たった2晩だからこそ外を自由に歩きたいとたまらなくなる。

大地震でも起こってバスが横転でもしないものか。
今だったら、腰縄を噛み千切ってでも叫びながら走れる。

途中で、護送車はどこかの警察署に寄る。
停車すると、座席の前部にカーテンが引かれて区切られた。
乗ってきたのは少年らしい。

護送される者は、大きく3種に区切られるのを知った。
ひとつは女性、もうひとつは少年、あとはその他おじさん。
30代であろうが50代であろうが80代であろうが、その他おじさんというひと括りで護送される。

霞ヶ関の中央合同庁舎

前回の事件で逮捕されて留置された警察署は茨城県だった。
当然、茨城地検に送検される。
なので東京地検は初めてとなる。

同じ地検でも、地方のほうは扱いはゆるやかだという。
それに地方だと、容疑者のほうも顔見知りや共通の知り合いも多いものなのか、押送の護送車の中でも、検察に到着して検事の呼び出しを待つ間も、他署の留置者と警察官も交えた雑談が絶えなかった。

留置場の中では、留置係と留置者の間で中古車の売買も行なわれていたくらいだった。
そのときに、自分が東京で逮捕されて、縁もゆかりもない茨城にきたことを話すと、そのうちの1人が「東京地検はキツかった」という。

どうキツイのか訊くと、話もできずに身動きもできずにじっと待つのがキツかったと話していた。
今日はそんな扱いになるのだろうな・・・と前回の逮捕を思い出しているうちに、霞ヶ関の中央合同庁舎の地下に護送車が止まった。

まず少年が降りて、次にその他おじさんの集団が降りていく。
この護送車というのは、昇降口が無駄に低く設計されている。
降りるときには頭をぶつけないように低く下げないといけない。

堂々と胸を張ってみたり、外の空気を吸い込んでみたりしようものなら頭をぶつける。
手錠に腰縄で頭を低くするものだから、こそこそと出てくるようにも見える。

容疑者を収容する施設というのは、ところどころで頭を無駄に低くしなければならない仕様になっているのだ。
房内の入口も低いし、食器口だって低い。

一団が降りたところで、新宿署の警察官から中央合同庁舎の警察官に腰縄の先端は渡された。
静かな合同庁舎の廊下だった。
中には蹴りつける者もいるのか、その位置で白い壁がくすんでいた。

その廊下を腰縄で数珠つなぎの一団は、無言のままゆっくりと、のけぞり気味で、がに股でぺたんぺたんと進んでいく。

東京地検の地下の警察官詰所

廊下を曲がった先には、すでに他の署からの一団が、やはり数珠つなぎのまま立って待機していた。

先頭の腰縄が、先客の一団の後者に結わえられて、さらに長い一列となった。
しばらくすると先頭が引かれたようで、一列は止まったり動いたりして、のろのろと歩き出した。

『警察官詰所』とプレートがある入口を過ぎるときには、「私語厳禁!勝手に話さないこと!」と大声で繰り返してる警察官がいる。

そこは詰所といっても、ちょっとした広さがある。
500名とまではいかないが、300名は収容されたのではないか。

高い天井だった。
配管が剥き出しになってもいる。
高い天井とコンクリート打ちっぱなしの壁に「整列して待機!」「私語厳禁!」と警察官の大声がいくつも重なって響いている。

一列は、ところどころを押されて蛇腹に折り畳まれた。
立ったまま待機していると「番号を呼ばれた者は返事!」とバインダーを手にした20名以上の警察官が、群れとなっている一団に、様々な番号をそれぞれが大声で呼びはじめた。

「品川の153番!品川!153番!」だの「本富士!236!236!」というように。
ひとりひとり順番に呼べばスムーズにいきそうなものを、20名以上の警察官が同時に呼び出すものだから大声を出したほうが優先状態。

呼ばれた側も、手錠と腰紐でぎゅうぎゅうに繋がれているから、そちらに向かって何度も大声で返事するしかない。

騒がしさが収まらない。
繋がれた群れのなかに手錠で立ち、いくつもの番号が重なって大声で呼ばれ続けていると、司法の手続きにきた犯罪者というよりも、今から出荷される奴隷の気分になってくる。

やがて「新宿の332番!新宿!332番!」と連呼されているのに気がついた。
大声で4度か5度ほど「はい!」と返事すると、連呼している警察官と目が合う。

向こうも気がついた。
容疑者の列をかき分けて前までやってきて「新宿でいいな!」と足元の便所のサンダルの番号を確かめた。
ついに、便所のサンダルが身分証明となってしまった。

一列から腰縄を解かれて、詰所のコンクリート壁に埋め込まれて並んでいる鉄格子の小部屋の前へ。

檻そのもの。
並んだ檻は、ずらりと20から30はあるのではないか。

手錠を外して腰縄を解いて両手を挙げてボディーチェックをしてから「3番に座って!私語厳禁で待機!」と檻の扉が開けられた。

備え付けのボックス型のベンチの背にした壁には、1から10まで番号が振ってある。
片側5名づつで、向かい合わせで10名が定員。
番号を呼ぶ大声が止んだ頃に、ベンチは定員となった。

座る10名は、見たところ20代から70代まで、気が弱そうな若者や不機嫌そうな中年や枯れ木みたいな老人まで。
太っている者はいないのに、隙間なく座ることになる。

「そこ!話すな!」と「そこ!立つな!」と10回か15回ほどの怒声が飛んだ後は、並んだ全ての檻は静けさが続いた。

私語厳禁で待つ

上階の検事から地下の詰所に連絡がくると、手錠と縄を手にした連行の警察官が檻の前まできて番号を呼ぶ。
それまで私語厳禁のままじっと座って待つが、ベンチは窮屈だった。

鼻でため息をつく者。
貧乏ゆすりをする者。
ケツが痛いのか体を斜めにする者。
腕を組んで目をつぶっている者。

隅にはトイレがあるだけの部屋のベンチに座ったまま、伸びをすることも足を組むこともできずに、無言のまま座り続ける。
意味不明な我慢大会のようであって、イライラが充満している。

20代の若者がトイレに立つ。
トイレは壁にはアクリルが組み込まれていて、檻の外からも中の様子が見えるようになっている。

若者は大のようだ。
便臭が漂ってきたのは、鍵がないトイレの扉は上下が空いているからだった。

終わらせた若者がベンチに座ろうとしたときに、中年が「流しながらしないと臭うだろ」と小声で睨みつけた。
若者は「すみません」と頭を下げた。
午前中に房内で交わされた会話はそれだけだった。

これほどの社会の底辺があるのだろうか

自分は悲しい気持ちで座っていた。
その地下の詰所には見覚えがあった。

17才の頃だ。
土方の現場で1ヵ月ほど作業をしたのがここだった。[編者註36-1]
霞ヶ関で《 中央合同庁舎 》という現場名だった。

まだ鉄骨が組まれただけだった建物だったが、地下のコンクリート造の小部屋が並んでいる構造は、確かにここだと認められていた。

17才のその日、裸電球の薄暗い地下で、2日ががりでコンクリート打設をしたのがここなのだ。

生コンを送り込んでくるポンプの音がごいんごいんと響く地下で、ロングのゴム長靴を履いて、大きなホースからどぼどぼと排出される生コンを熊手で掻いて均していくのが土方の仕事だった。

大量のコンクリートだった。
床面のコンクリートだって、30センチほどの厚さで打設されている。
今、ここに座っているボックス型ベンチの中だって、コンクリートの塊だ。

あと覚えていることといえば、コンクリート打設の作業には休憩がなかった。
一気に一区画を打設をしなければならないのだ。
生コンはわずかに発熱する。
換気設備などない地下には熱気がこもり、喉が渇いたままの作業だった。

ホースからの生コンが途切れると、地上からは、生コン車の到着待ちと伝わってきた。
手を止めた皆が汗だくで、生コンが顔に跳ねていた。

今のうちに休憩しようと、お前は地上の自販機までいってきて缶コーヒー買ってこいと、土方の親方がゴム手袋を外してポケットから小銭入れを取り出した。

そのとき、500円玉が落ちた。
打ったばかりのコンクリートの床面に落ちた。
すぐに生コンごとすくって、かなり丹念に探したのだが、どこにどういったのか見つからない。
不思議なほどに500円玉は、瞬間で、生コンの中に消えてしまったのだ。

今も、ここのどこかに、あの500円玉は埋まっている。
どこにあるのだろう、と16年近く経って気になったのは妙だった。

土方の連中は缶コーヒーを飲みながら、小部屋とベンチの躯体を眺めて話す。
ここは牢屋になるんじゃないか、と。
こんなにも厚くコンクリートを打ってある牢屋だったら絶対に逃れられないな、と笑う。

その場にいた土方の誰もが、なんで霞ヶ関の中央合同庁舎という最新の建物の地下に牢屋が必要なのかわからずにいた。

今からすれば、逮捕されるような行いはしたことがない、善良すぎる人たちだったのだ。
アホなだけで、真っ当に生きている人たちだったのだ。

17歳の自分も、どんな人がこんな牢屋に入るのだろうと不思議だった。
それから16年経ち、実際に自分で入ろうとは。
どんな人とは、こんな人だったのだ。

自分でコンクリ打ちをした地下牢に、後年になって自分で入る。
これほどの社会の底辺があるのだろうかと、うな垂れてじっと座っていた。

自分でコンクリ打ちした地下牢に自分で入る・・・か。
自分の墓穴を自分で掘る・・・みたいな。

ある戦記物を読んだときに、捕虜となって墓穴を掘らされるときには、絶望のあまりに早く殺してくれという気持ちになるとあったが、自分でコンクリ打ちした地下牢に自分で入るのも、なかなかの絶望感がある。

– 2020.5.18 up –