栗田玲子、36歳


会社の設立費用は発起人負担

玲子と新宿プリンスのティーラウンジにいた。

栗田玲子は杉並区在住の主婦で36歳、自分よりも7つほど年上になる。

知り合ってから、もうすぐ半年経つ。
そして、ここ2ヶ月足らずで1000万円引っ張った。

彼女が言ってくることは、もう分かっていた。

「わたし、弁護士に相談したの」
「そう、それで?」
「そしたら・・・、騙されてるって・・・」
「弁護士はそういうだろうな。普通に考えて。そういわないと仕事にならないから」
「それで、借用証を書いてもらえますか?]
「あのお金はね、オレが玲子から借りたお金なの?」
「・・・」
「借りたお金を返さないというのは、騙してることになる」
「・・・」
「あのね、玲子から受け取ったお金は会社の設立費用でしょ?預かり証にもそうなってるけど」
「・・・」
「ちがう?」
「・・・うん」
「それにオレがお金を貸してください、と一言でもいったことがある?」
「・・・ううん」
「会社の設立費用は発起人負担、これは商法で定められてるよ」
「・・・」
「その弁護士の先生はその辺り説明してくれたの?」
「・・・ううん」
「それで、借用証書いてくれということは、オレととことん争うということだね」
「・・・」
「わかった。裁判するなり、追い込みかけるなり勝手にすればいい!」
「田中さん・・・」

彼女には、今まで1度も怒りを見せたことがないが、ちょっとぶちかましてみた。

すぐに要求は撤回された。
それどころか、まだ金をとれそうな気がして、すぐに自分も態度を変えた。

「オレ、玲子に裏切られたのか。・・・首吊りたくなってきた」
「そういうこといわないで」
「ごめんね。・・・つい」
「・・・」
「だけどね、そこを2人でどうしましょうか、と話し合うのが本来でしょ?」
「・・・」
「それを、オレを崖から突き落として、ハイ、サヨナラ、っていうことなの?」
「そんなこと・・・」
「言ってることは同じだよ」
「・・・」
「それに裁判して判決取るなり、仮執行するなり、好きにしてもらっていいよ」
「・・・」
「いずれにしても、玲子はオレの債権者になる。だけどね、世の中の話として、ないところからは取れないよ」
「・・・」
「オレはなにも、ムチャクチャいってる訳じゃないでしょ?」
「・・・」
「わかるでしょ?」
「・・・うん」
「オレは、これからは話し合いやっていきたいけど」
「・・・」
「玲子は?」
「わたしも話し合いでやっていきたい・・・」
「設立の件ね、今月の末に決まるから」
「そうなの・・・」
「あと、少しなんだよ、今度は間違いないから」
「・・・」
「来週からは会社の資金に手を突っ込めるんだよ。もちろん今までの費用は設立準備金として経理処理できる」
「・・・」
「だから、あともう少しなんとかならない?」
「・・・いくらなの?」
「500万円」
「・・・」
「もうこれであとは費用はかからないから」
「・・・」
「・・・もう、わたし、お金ないの」
「まったくないの?」
「・・・」
「とりあえず出ようか」
「・・・」

会計をすませ、エレベーターでフロントに降りる。

いつもなら、ここから部屋でセックスになるが、彼女は今までにない拒みかたをした。

金もないというし、これが限界だな、と思った。

理知的で貞淑な奥様という印象

彼女をスカウトしたのは半年程前。

新宿駅東口の交番前だった。
夜の8時くらいだったろうか。

帰るところだった。
フラフラと歩いている感じだったので、早歩きで追いかけて声をかけた。

「ちょっといいですか」
「アッ、ハイ」
「突然ごめんなさい」
「いえ・・・」

思った通りのリアクションがあり、足が止まった。

斜め後ろから声をかけたので、顔はわからなかったのだけど、こうして見ると30代の半ばだろうか。

家庭がある人妻というのがすぐわかる。
うーん、どうしようか。

暗かったのでよくわからなかったが、もう少し若いと思った。

「はい、なにか?」
「今、仕事手伝ってくれる方探しているんですよ」
「はい」
「もう、結婚されてるんですよね?」
「ええ」
「そうですよね、じゃあ、夜の仕事なんてちょっとムリですか?」
「そうですね。子供が小さいのでちょっと・・・」
「いやー、パッと見た感じが雰囲気あったものですから、声かけたんですけど」
「はい・・・」
「今日はお仕事かなにかで?」
「ちょっと、お友達とあっていたものですから・・・」

そんな感じがした。

生活臭いという訳ではないが、今日は久々のお出かけでおしゃれしてるのだろう。

スーツの小柄な身体のラインは、後ろからはオバさん体型には見えなかった。

話して見ると、オバさんというより、理知的で貞淑な奥様といった感じだ。

しかし、なぜ人妻は、こういう落ち付いた話し方をするのだろう。

彼女は、今から自宅に帰るところだったらしい。

携帯電話は持ってないというし、自宅の電話番号は聞いてもしょうがない。
あきらめるかと、しばらく立ち話をして別れた。

この場合は、自分の携帯は教えない。
教えたところで、かかってくることはないだろう。

ここまではよくあること。
気にも止めてなかった。

『何が正しい』ではなく『誰が正しい』か

それから10日程経ったころ。
彼女にバッタリ会ったのも、新宿駅の東口だった。

そのとき自分は、歩道脇の鉄柵に腰掛けて電話をしていた。

ふと通りに目を向けると、彼女が歩いてくるところだった。

なぜだかすぐに彼女とわかり、相手もこちらに気が付いたのだろう、お互いに目を向けた。

自分が手を挙げペコリとすると、彼女はちょっと驚いた表情で立ち止まった。

話が終るまで、彼女は少し離れたところ立ち待っていた。
電話を切ってから彼女の方を向く。

「偶然ですね。この前はどーも」
「よく覚えてますね」
「ほとんど覚えてますよ。子供が小さいとか話しましたよね」
「そうですか」
「そうなんですよ」
「忙しそうですね」
「貧乏ヒマなしで」
「そうですか」
「今日はどちらに?」
「勉強会があって」
「そう、なんの勉強をしてるんですか?」
「新規事業とか経済のお話を聞いてきたんです」
「新規事業?」
「新しい会社の流通の事業です」

あっ、この人、マルチやってんだ、とピンときた。

新規事業といったって、事務所があったり法人登記してといったような内容じゃないだろう。
どうみても一介の主婦である。

マルチをやる人間の特徴はつかんでいる。
やはり、動かす人間と動かされる人間とで別れる。

彼女は動いてはいるが、稼いでるというわけではないだろう。

末端の兵隊で動いてるのだろう。
そして末端の人間は人がいい。

そして話にスキがある。
だから、そこを突き揺さぶる。

このタイプは、打ちこみ(説得)がうまくいけば動かしやすい。
話も必ず聞いてくれる。

「今、帰る途中ですか?」
「ハイ」
「だったらココアでも飲みません」
「エッ、いいんですか」
「ちょっと、足がつかれちゃって」

スキがあれば引っ掛けてやる。
なにかしらスカウトにつながるかもしれない。

明治通りのイタトマに向かった。

ココアを飲みはじめたころ、彼女がマルチの話を振ってくる。

矯正下着のマルチだった。
頷きながら、一通り聞いた。

「マルチですか」
「マルチじゃありません。ネットワークビジネスで・・(略)・・が・・(略)・・で」
「そう、僕はね別にマルチって悪い意味でいったんじゃないよ」
「はい・・・」
「粗悪品売ろうが、石ころ売ろうが、ペーパー売ろうが、商売だからね。儲かるんだったらやりますよ」
「はい・・」
「いいとか悪いはあまり関係ないです」

すべての物事を良い悪いで話する人間がいる。

自分の知らないこと、理解できないことを悪いことと決めるパターンがおおい。

こういうタイプと話するときは、決して議論してはいけない。

否定もしてはいけない。
相手のいうことはすべて肯定からはいる。

そして「でもね・・・」と、事実を一つ一つわかりやすく伝える。

教えるように言ったほうが効果的。

「誰かいたら紹介してください、ということですよね」
「ええ」
「いいですよ。知り合いの社長とかいますし」
「そうですか」
「でもね、ハッキリいってお金持ちが多いんですよ。何千持っていたり、何億動かしたりとか」
「すごいですね」
「うん、だから儲かりますよ、という話はあまり持っていけないんです」
「どうしてですか?」
「あのね、お金持ちというのはすでにお金があるから、いまさら自分が動いて儲かるという話には乗らないんですよ」
「エッ、そうなんですか」
「そうです。逆にいやがられますね」
「なるほど」
「どういう話がいいか知ってます?」
「いいえ」
「これを支配できますよ、所有できますよ、独占できますよ、とかの話でないと決まらない」
「はい・・・」
「やっぱ、金持ちは人を支配したり、物を所有したりというのが楽しいんでしょうね」
「・・・・」
「その辺が金持ちはむずかしい」
「・・・・」

このタイプは一方で、教えこまれたことを良いことと考える。

何が良い悪いではなく、誰がいったことが良い悪いという視点になっている。

『何が正しい』ではなく『誰が正しい』という話になる。

そして全体の話の流れが、非常に抽象的な内容になる。
ビジネスというわりには、一様に依存心が強い。

だからもっともらしく、できるだけ大きな話をして、自分に依存させなければならない。

そうして「この人のいうことが正しい」と、こっちの話にすり替えなければならない。

「でも、田中さんは入ってくれるんですよね」
「僕?僕はね、この場合だとね、会社から取ることを考えるかな」
「・・・」
「商品入れたりとか、兵隊持っている頭引っ張ってきて会社から経費おとしてもらうとかね」
「でも、このマーケティングプランが・・(略)・・で、・・(略)・・なんですよ」
「うん、それはわかります」
「・・・」
「けどね、すばらしいから儲かるとは限らないでしょう。良い悪いは別にしてですよ。・・・ですよね?」
「・・・」
「商売は、自分の有利にやらないと儲かりませんから
「ええ・・・」
「今から兵隊でやるよりは会社から1%落としのほうがいい。0.5%でもいいね。そのほうが額がでかい」
「じゃあ、田中さんは入らないんですか?」
「一緒に趣味でやりましょうというのなら、1年に義理で2,3人しか入れるぐらいしかできないです]
「そうですか・・・」
「栗田さんは儲けたい、ということなんでしょ?」
「まあ・・・。ええ・・」
「商売をしたいと考えてるんですか?」
「そうです」
「惜しい」
「エッ」
「惜しいです」
「なんでですか?」
「やり方をかえれば儲かると感じる」
「そうですか」

話をいじれてきた。
揺さぶりをかける。

彼女は主婦。
商売経験はないらしい。

ダンナはサラリーマン。
ごく一般的な家庭なのだろう。

「いま、僕はこんなコジキしてるんですけど」
「コジキなんて、そんな・・・」
「いや、そんなようなものです」
「・・・」
「だけどね、こんど商売しようということになって」
「そうですか」
「栗田さん、商売やりたい、というのなら一緒に協力できるところは協力してやりましょうよ」
「いいですけど・・・」

マルチの末端は金を出すクセがついている。
「いいですけど・・・」という返事を聞いて、ゼニ引っ張れるものならひっぱりたいな、とふと思った。

十分に依存させれば、話のすり替えはできそうだ。

彼女は儲けたいというのはあるようだが、お金に困っているというわけではないだろう。

かといって、ヒマだからというのでもないようだ。
勢いづいてハマッてる、というわけでもない。

紹介者の義理でやってるのか。
なんで、マルチなんかしてるんだろう。
うーん、見えない。

「この後、打合せに行かなくてはいけないので」と話を切り上げた。

来週また会って打合せたい、というと自宅の電話番号を教えてくれた。

どのような仕掛けがいいだろうか。
商売名目で引っ張るのがいいだろうか。

50億の相続

それからの日は、昼間に彼女の自宅に電話をして、何回も話をした。

そして、「あのビジネスの話がすすんだ」と名目をつけて、新宿ヒルトンで待ち合わせした。

玲子、36歳
平日の昼間に新宿ヒルトンで待ち合わせをした

約束の時間にきた彼女を見て、「動きそうだな」と内心で思っていた。

仲間内で海外通販を仲介する会社を立ち上げる、という架空ネタを彼女に話す。

「田中さん、会社設立するなんてすごいですね」
「栗田さん、会社設立なんて、そんなむずかしいものじゃないです」
「そうですか」
「ヒト、カネ、モノというけど、まずね人でしょう、組織ね」
「はい」
「それとカネ、資本ね。それとモノ、ネタね。ネタはいくらでもあります」
「はい」
「資本はね、事業計画に賛同した人が銀行に払いこみして集めるわけ。ちなみに皆、入社すると社員だというでしょ?」
「はい」
「商法的にはね、給料を会社から貰ってる人は社員ではなくて、ただの作業従事者っていうんです」
「そうなんですか」
「そう、出資した人が出資社員として、会社の所有と経営にタッチできます。六法全集の商法読めばわかりますけど」
「そうですか」
「会社の社長なんて仕事はできなくたって務まります」
「そうなんですか」
「うん、役員は運営さえできればいいんです」
「はい」
「会社には、従業員がいれば取り引き先もいて、株主もいて、関係先がいろいろとできるでしょ?」
「ええ」
「その、調整がうまくできて決断ができれば務まる」
「そうですか」
「あとね、会社ってなんでつぶれるか知ってます?」
「いいえ」
「いろいろあるけど、手形の振り出しとか、モノ作ったりとか。だけどね、営業上の赤字を出さなければ大丈夫」
「そうですか」
「今回は上場したいとか、土地建物担保に銀行から借り入れするとかは、そんなのは考えてないけど、確実に営業上の黒字はたたきだせます。自給自足の商売になるけど、確実にやっていきたいですからね」
「そうですか」
「今、出資者と打合せしてるところだから、会社を設立するときは、栗田さんも1枚かんで役員にどうですか?」
「エッ、わたしがですか?」
「うん、役員構成を僕有利にしたいのあって。栗田さんだったら僕のブレーンになってくれそうだし。それに設立の話は意欲がない人にはできないですから」
「でも、役員なんて」
「あのね、最初から役員なんて誰もできないです」
「はい」
「演じればいいだけ」
「演じる・・・?」
「役員を演じることはできるでしょう」
「演じるですか・・・」

彼女は興味深そうに「はい、はい」といって聞いていた。

もし彼女がまとまった額のカネをもっていたら、本当に会社を設立してもいいんじゃないか、とも考えた。

しかし実際、自分は今は会社をやるつもりはない。
理由は今の生活が結構気に入っている、というだけだ。
その日暮らしみたなものだが充実してる。

次に会った2回目も、そのインチキネタを拡大して説明する。

「札幌に三井興産ていう会社があるんだけど、そこの社主が7年前に亡くなって」
「しゃしゅ、ですか?」
「うん、オーナーだね。英語がきらいらしくて」
「あ、はい」
「それで、その亡くなった社主の妾さんが、正妻と遺産相続の裁判を5年間やっていてね」
「裁判ですか?」
「うん、それがやっと相続が認められて。土地建物で50億を相続することになったのね」
「50億ですか!」
「バブルの頃の評価額だから、今はもっと落ちてるけどね。それでもけっこうなもんだよ」
「はい」

三井興産なども、社主も、もちろん裁判も存在しない。
それっぽいので言ってるだけ。

「だけど、向うにはもう住みたくないということなのね」
「そうでしょうね」
「それで東京に来ることになっていて。娘さんと」
「はい」
「そういうからみで出資には応じてくれるから、今、取りまとめしてるところでね」
「そうですか」
「関連の不動産会社が出資して会社設立するから」
「はい」
「それでね、その会社が北海道にある土地を担保にして銀行から借りるということだから、明日から担当者と北海道に行ってくる」
「はい」
「だから来週どうなったか電話する」
「はい」
「出資が実行されるのは、来月になる予定だけどね」
「はい」

1から10までインチキ話とは全然思ってないようだ。
それどころか「なるほど」と、妙に納得したりしてる。

さすがバブル世代。
反応はよい。

元ブローカーの端くれだから、こんな話だったらすぐに作れる。

30代半ばにもなるとよく読めない

その翌週。

彼女の自宅に電話して、新宿ヒルトンでランチをする約束をした。

北海道に出向いていたのを装うために、東京駅まで行って買ってきた北海道土産の『白い恋人』を渡した。
そういう手間は惜しまない自分だった。

彼女は36歳、子供は5歳と7歳。
結婚して10年目。

ダンナは普通のサラリーマン。
素材メーカーに勤務だという。
その会社は、上場企業だった。

杉並区の自宅には、姑とダンナと子供2人で5人暮らし。

「ダンナとはラブラブなんだ」
「ウチは淡々としてるんですよ」
「そう・・・」

やはり普通の家庭生活がうかがえる。

彼女の実家は埼玉県の上尾市。
大学卒業後、入社した会社でダンナと知り合い結婚。

しかし、この世代よく見えない。
ハタチぐらいの女のコだったら単純なだけにキーワードがみつかるが、30代半ばにもなるとよく読めない。

興味だけでここまでの話にはならないだろう。

なにか欲しいモノでもあるのか?
子供のためなのか?
なにか仕事を求めてるのか?

田中さんががタイプだから、というのはないだろう。
自分はそんな自信家ではない。

ともかく彼女のキーワードはなんだろう。
うーん、わからない。

なんといって引っ張ろうか。

– 2001.10.1 up –