東京地検の検事


検事室

午前中が過ぎた。

昼になると鉄格子の食器口が開いて、おにぎり2個とプラスチックのコップの麦茶が支給された。
おにぎりの海苔はゴムに近い歯ごたえ。
高齢の容疑者は、海苔が噛み切れずに残している。

食べ終わると、痛いケツをもぞもぞさせて待つだけ。
午前中は寝てもみたが、もう眠くない。
コンクリの天井を見つめていると、やっと番号が呼ばれた。

檻を出てからは、両手を上げてボディーチェックをして、手錠をかけて腰縄を結わえる。
腰縄の端を連行の警察官が持つ。
後ろに立ち「ここ、まっすぐ」と指示してくる。
もちろん、これからどこにいくなどという説明などない。

警察官は常に背後に歩いて指示してくる。
静かで暗めの廊下を進んで「そこ、右に」というから「はいっ」と返事をすると「返事はいい!」と突きかえされた。

しばらく歩くと「そこ、左に」と。
エレベーター前につくと「止まって」と。
乗ると「壁を向いて」と。
上階につくと「回れ右」と。

エレベーターを降りると「右に進んで」と廊下を歩く。
“ 検事室 ”とプレートがあるドアが並んでいる。

そのうちのひとつのドアの手前まで歩くと「止まって」と声がかかる。
立ち止まると「壁に向かって」と警察官は言ってからドアをノックする。
ドアを開けると「入って」と促された。

広い個室だった。
入口脇にはミーティングテーブルと椅子があり、壁面には木目のキャビネットが並ぶが、それでもスぺースが余っている。

東京地検の検事
検事は革張りの肘掛椅子にふんぞりかえって座っていた

正面の机の向こうの革張りの肘掛椅子に、ふんぞりかえって座っているのが検事だ。

検事の机は大きい。
木目はウォルナット。
高級感あり。
背にしたブラインドの窓からは上級な陽の光が射している。
検事がどういう立場の人物なのか小学生でもわかる。
地下の詰所で奴隷になった気分の延長でいえば、買主の居室みたいでもある。

検事の重厚な机の前には、小学校にある小さなスチール机と簡素な丸椅子が置かれている。
そこが被疑者の定位置。

連行の警察官は、小さな丸椅子に座るように促した。
そこに座ると、連行の警察官は外した手錠の輪を丸椅子の脚に連結して、腰縄もぐるぐる巻きにして結わえて、自身は入口の脇にある椅子に座る。

検事は小さく「うん」とうなずいただけだった。

検事の弁解録取書

ウォルナットの机上には開かれたファイルと、隅にキーボードとディスプレイがあるだけ。

検事の机の脇には、スチールの長机がL字に配置されている。
そちらの長机には、プリンターとノートパソコンが置かれていて、事務官だか補佐官だか見習いのような若手が行儀よく座っている。

血色がよく脂ぎった検事は、まずは「氏名は?」と人定質問をはじめた。
次は、本籍地、生年月日、年齢、現住所、職業を確かめる。

ちなみに職業は『店舗経営』としている。
店が営業してないので、嫌味も込めて『無職』で済ませたほうがすっきりとしていいのだが、犯罪を行なった者が無職を名乗るのは心証が悪い。

いや、心証が悪いのは勝手にしてくれていい。
司法の場では、無職はそれだけで罪悪とされる。
勤勉、勤労、納税という国民の三大義務のふたつを放棄してることになるからか。
余計な罪悪を抱え込んで、あれこれ指弾されないためにも『店舗経営』としていた。

人定質問をした検事は、机上に開かれたファイルに目を落として軽く頷いている。

「ええ、逮捕事実。営業禁止地域である新宿区歌舞伎町で性風俗店を営業していたと」
「はい」
「同店にて、シホこと菅原みのり、トモミこと佐野景子、両名を業務に就かせたと」
「はい」
「この、トモミって大学生で風俗やってんの?」
「はい」
「バカじゃん」
「・・・」

内心で驚いた。
久しぶりに、おそらく大人になってから数人目くらいに、ただただ純粋に泣かしてやりたい人物に出会えた驚きだった。
殴ってでも泣かしてやりたい。
粗暴な自分ではないのに。

「ふーん、逮捕事実に間違いはないと」
「はい」
「ふん、ふん、ふん」
「・・・」

検事は鼻で頷いている。
なんで、こんなにも泣かせたいのだろう。
検事の顔をまじまじと眺めたのは、彼女を嘲られた憤りからの熱い気持ちではなくて、えらく冷えた気持ちで泣かしてやりたいと思えたからだった。

どのくらい冷えた気持ちでかといえば、やりすぎないように殴る力を調整しながら、ほどよく泣くまでは殴り続けれるなというくらい。
不思議だ。
繰り返すが、自分は全くそんな粗暴な人ではない。

ファイルから目を離した検事は、脇の長机の青年に「ベンロク」と呼びかけた。
青年は書記だか筆記係かもしれない。
ノートパソコンのキーボードにサッと両指を置いた。

「たいほじじつに、てん、すべてまちがいはありません、まる、いじょう」
「・・・」

検事は口述して、書記だか筆記係はブラインドタッチで入力。
2つの机にあるディスプレイは同期してあるようで、検事は入力された文言を確認する。

検事の「プリント」との一言で、クリック音をさせてプリンターからうぃーんと『弁解録取書』を出した。
署名させるのも、指印させるのも、すべては書記だか筆記係が行なう。

その間、検事はディスプレイを見ながら、考えごとでもしてる表情で座っていたが、10日間の勾留延長の請求をすることだけを告げた。

告げた途端に、入口で待機していた警察官が手錠と腰縄をして検事室を出た。
「ここ、まっすぐ」と「そこ、右」と「はい、壁向いて」という背後からの声で、地下の檻の中に戻った。

裁判官による勾留尋問

また檻の中でじっと座って待っている。
次は、それほど時間は経たなかった。
とはいっても、1時間は過ぎていたが番号を呼ばれた。

ボディータッチと手錠と腰縄と「ここ、まっすぐ」とを繰り返して、同じ庁舎内にある裁判所の一室へ。

同じ建物内なのに、検察と裁判所は違うと思わせるのが、入室するドア前の廊下で手錠と腰縄を外すことだった。
入室するのも自分1人だけで、連行の警察官は室外で待機する。
たったそれだけの小さな違いだけなのに、検察と比べると何らかの配慮を感じさせる。

ドアを開けると長机が2つくっつけてあって、あとは椅子だけの簡素な小さな室内。
すでに書記のみが席についていて裁判官を待っている。

室内は2人だけ。
もし自分が猟奇的な天才大量殺人鬼だったら、この書記はどうするのだろうと余計な心配して椅子に座っていると、反対側にあるもうひとつのドアが開いて裁判官が入室してきた。

裁判官だった。
警察が奴隷商人だとして、検事が買主だったら、この思案顔の裁判官は正当さを証する祭祀の主催者といった穏やかさはあった。

対面に着席した裁判官は「それでは、勾留尋問をはじめます」と静かに告げた。
手にしていた書類を机上に広げて「氏名をおねがいします」と人定質問をする。
本籍地、生年月日、年齢、現住所、職業と丁寧な言葉遣いで確認された。

尋問といっても、強制さはない。
裁判官が、逮捕事実の正誤を口頭で確認するだけで、自分も答えるだけ。

しかし自分はついうっかりと、裁判官が誰かに似てるなと無駄な考え事をしていたためか、問いの意味を取り間違えて、反対の「いいえ」と答えてしまったようだった。

「すると、あなたは・・・」
「あ、はい」
「逮捕事実を不認するということですね?」
「え、フニン?といいますと・・・」

落ち着きある裁判官と、脇にいる書記が、2人同時に「えっ」と目を見開いて自分を見てからだった。
自分も「えっ」というような顔をしたと思う。

「逮捕は間違いですということですか?」
「いえ、間違いないでいいですけど・・・。あれっ、今って、私、反対のことを答えちゃいましたかね?」
「あ、では、もう1回、お聞きします」
「はい」
「逮捕事実は間違いないでいいですか?」
「はい」
「わかりました」
「すみません、ボーとしていて」

裁判官はわかりやすくホッとした顔をした。
警察でも検察でも逮捕事実を認めていた容疑者が、この段階になっていきなり否定すると面倒なのだろうなと見てとれた。

裁判所から送付される勾留通知の葉書

「では、本日も含めて、10日間の勾留となります」と裁判官は告げる。
差し出された『勾留状』に署名と指印。

そして『勾留通知』というハガキを裁判所から送付するので、1ヶ所だけどこでもいいので希望があれば、と住所を記入する書類を差し出された。

勾留通知のハガキには、逮捕された日付と留置されている警察署が記載されている。
逮捕されたのを知らせなければならないのは智子だった。

おとといの夜から連絡がとれなくなって、逮捕されたのはわかっているのかもしれないが、心配しているだろうなとは気にしていた。

留置先に見当をつけて警察署に電話しても、弁護士以外の第三者に、問い合わせの当人が留置されているのかいないのか答えが返ってくることはない。

警察は家族でなければ明かさないのだ。
弁護士に依頼するか、関係を証明できるものを持参して直接に出向いて問い合わせるしかない。

ただの交際相手でしかない智子が、自分の逮捕と留置先をはっきりと知るのは勾留通知だった。
郵便受けをのぞいて待っていることだろう。

送付先住所は、家族に限らず友人知人でも可。
が、住所だけは覚えていて、この場で記入ができなければならない。
郵便番号を忘れたくらいだったら、裁判所で調べてから送付してくれる。

送付先は自宅を記入した。
この『勾留通知』のハガキが到着するあさってあたりには、留置先の警察署を知った智子は、面会と差し入れにいそいそと来てくれるのだろうなと内心はうれしい。

こんな逮捕された姿を見せれるのは智子しかいない。
そうだ、面会のときは、今にも倒れるくらいの弱々しいふりをしてやろう。
頭もボサボサにして。
飯も食べてないと言ってやろうか。

あの優しい熟女は、きっといい具合に涙ぐむだろうなと、意地悪と興奮を含んだうれしさが沸いてきた。

接見等禁止決定、略して接見禁止

ほっこりしていると、裁判官は次いで「こちらも決定となってます」と1枚の書類を差し出した。
『接見等禁止決定』とある。
略して接見禁止。

接見禁止がつくとは。
予想外だった。
罪証の隠滅、逃亡の恐れあり、との理由が渡された書類には事務的に記載されていた。

面会が、弁護士以外は禁止となるのだ。
手紙の発信も受信も、弁護士以外は禁止となる。
手紙はともかく、面会はどれほど楽しみにしていたことか。

呆然とするほどショックでいると、説明を終えた裁判官は「勾留尋問を終わります」と告げて向こうのドアから退出した。

残った書記が退室を促した。
もし自分が猟奇的な天才大量殺人鬼だったら、この書記は、声をあげる間もなく喉を噛み切られていたところだ。

退室してからは、廊下で待機していた警察官に『勾留状』と『接見等禁止決定』の書類を渡して、ボディーチェックして手錠をはめて腰縄を結わえた。

逮捕されてから、どれだけ手錠に腰縄を繰り返しただろうか。
「ここまっすぐ」と後ろから言ってくる警察官に、くるっと反転して『逃亡なんてしねえよ』と言い返してやりたいほど接見禁止が腹立たしかった。

湧いてきた反省の念

地下の詰所の房に戻り、またじっと待つ。
そうしていると接見禁止の腹立たしさも収まり、次には妙な気持ちが生まれてきた。

朝からずっと番号で呼ばれて、こずき回されるようにして扱われてみると、少しだけ反省の念が沸いてくるのだった。
こうならないと反省できない自分かもしれない。

今まで女の子に対して、同じような酷い扱いをさんざんとやってきたのではないか?
スカウトだなんてカタカナ語でごまかしてみても、やっていたことは前時代の人買いの類と大して変わらないのではないか?
本人の意思だからとの建前でも、AVや風俗の背中を押したのは自分ではないか?

結婚しようといいながらヘルスからソープと勤めさせて、あげくにAVもやらせた真由美、一緒に住もうと金を取った美恵子、貯金を根こそぎ獲って勤めていた銀行を辞めることとなった美咲、信頼をしてくれたのに大金を騙し取ってさらに要求した玲子、彼女らには特に酷いことをした。[編者註38-1]

うなだれながら、さらにじっと待った。

原宿署前で護送車が止まって

時計がないので正確にはわからないが、護送車に乗って霞ヶ関の合同庁舎を出た時刻は18時くらいか。
8月初めの陽が落ちかけていた。

行きとは違う道を戻っていた護送車が、明治通り沿いにある原宿署の前で止まった。
同乗の警察官が腰縄を結え直しているところからすると、乗り合わせていた原宿署留置の5名は途中下車となる様子。

窓から見える歩道には、学生らしい女の子がいっぱいに広がって、お喋りしながらてれてれと歩いている。
なにかの学校でも近くにあって、終業と重なったのだろうか。

仏頂面の警察官が護送車から歩道に降りて、にぎやかに歩いている女の子の集団に割って入って、一方を足止めした。
護送車を、原宿署の駐車場に入れるための通路を確保しているのか。
しかし護送車は、明治通り沿いに止まったまま。

まさか。
原宿署留置の5名はここで降りるのか。
そのまま人目のつく歩道を横切り、さらに警察署前の駐車場も横切り正面入口に向かうのか。[編者註38-2]

予想通りだった。
手錠をして腰縄で数珠つなぎの5名は、護送車の低い乗降口を頭を下げながら歩道に降りていく。

ボサボサ頭によれよれのTシャツにジャージ姿の5名が歩道に降りると、腰縄の端を持つ仏頂面の警察官が「はい、玄関まで」と声をかけたようだ。

歩きはじめた数珠つなぎの先頭は、ぱさぱさのバーコードが無残になびいている中年が、5名が容疑者なのを強調していた。

警察官に割って入られた女の子の集団のもう半分は、そのまま通り過ぎてはいない。
全員が足を止めて180度振り返って、はじまったとばかりに、笑いを含んだ目を護送車から降りてきている5名に向けている。
それらがスモークの窓からはよく見えた。

普段からここを通って帰宅する女の子たちにとっては、護送車と容疑者は風物詩にでもなっているらしい。
頭を低くして、うなだれる格好で護送車から降りてきて、真夏の夕方の日差しにさらされた容疑者5名を、元気な女の子たちはそれぞれが無遠慮に指差して、何をやらかしたのか各自が勝手に言い当てているのか、きゃっきゃして笑い合っている。

笑いを浴びながら腰縄でゆっくりと進む5名は、中央合同庁舎の中での移動のときには、のけぞり気味のガニ股で大きく歩いて便所のサンダルをぺたんぺたんとさせていただろうが、今は手錠の脇を締めてうつむいて直立して、早めの小刻みの摺り足で進んでいる。

ジャージが灰色なものだから、5体の地蔵が必死になって進んでいるみたい。
みすぼらしい地蔵だった。

ひとりの女の子が、5名を順番にびしっと指差した。
おもしろおかしく私的な判決を下しているのだろうか、厳しい判決ではあるだろうけど、声高にひとこと発する度にどっと笑いがおこっている。

自分も1歩間違えれば、ああいうように女の子の集団に断罪されて笑われていたのかもしれない。
このときだけは、悪事には報いというものは確かに対として存在していて、すぐ近くにまで迫ってきているのが信じられた。

小学生とわかる2人組の女の子もいたが、彼女たちだけは笑わずに不思議そうに見ていた。
疑問も交じった顔を、2人してあちこちに向けている。

どうしてあのおじさんたちが面白いのか、なんであのおじさんたちで大笑いできるのか、とでも思っているのかもしれない。

小さな彼女らのその様子を目にしたとき、悪いことはするもんじゃない・・・と素直に反省の気持ちが一気に沸いてきて少しだけうな垂れはした。

駐車場を進んでいく5名に『がんばれ』と念を送りながらも、でもよかった、原宿署でなくて本当によかった、と小さな幸運にほっとした。

– 2020.6.19 up –