違法営業の風俗店の店長に


金融屋の説得

またヒロシから電話がきたのは、夜勤が終わり、帰宅した朝だった。
寝る間際だったが、ヒロシにとっては早起きになる時間だ。

「田中さん、名義人、絶対にやったほうがいいですって」
「んん」
「まえ、田中さんね」
「んん」
「智子さんがおにぎり握ってくれて、それ持って2人で上野動物園にいったって話したじゃないですか」
「そんなこと話したな」
「で、ゾウさんみたとか、2人でゾウさん歌ったとか、わけのわからないこといってたじゃないですか」
「んん」
「オレ、すごく悲しかったんですよ、あのとき。泣きそうでしたよ」
「なんで?」
「ああ、この人、終わったなって」
「なにいってんだよ」
「ホントですよ、田中さん、あのあたりからアタマおかしくなってんですよ」
「・・・」
「そんなにも智子さんがいいんですか?」
「そういうなよ」
「いつまでも、しょっぱい派遣バイトなんかして。やってておもしろいですか?」
「・・・」
「智子さんが、やれっていってんですか?」
「・・・」

今日のヒロシは妙に突っかかってくる。
たぶん、あの気が強くて声も大きい嫁とケンカして、いつも通りにぶちかまされたのだろうと察すると腹は立たなかった。
とばっちりだな、とヒロシの話を聞いていた。

「オレ、田中さんがスカウトでカネ稼いでいるのをみて、うらやましかったんですよ」
「・・・」
「これで女とメシ食えってさ、あの黒革のサイフひらくとさ、札がビシッてはいっていてさ、3000円くれたじゃないですか」
「ほんと、よくおぼえてるな」
「おぼえてますよ、なんで1万円札じゃないんだろって」
「ははは」
「そういうの、またやってくださいよ!」
「・・・」
「オレがスカウトをがんばったのだって、今もあんな金融屋でがんばっているのだって、もっと稼ぎたいって、最初に田中さんがおもわせたからですよ!」
「そっか・・・」
「田中さんがバカでもできるんだって、最初に教えてくれたんじゃないですか!」
「・・・」
「だから、田中さんは歌舞伎町でやるべきですよ!」
「・・・」

説得力はある。
勤めてる金融屋で、こんなテンポで客と電話をしているのだろうか。

『電話1本でお金貸します!即日振込!』のインチキ広告をみて電話してきた客に、最もらしい理由をつけて審査が緩いサラ金を紹介して借りさせせる。

それから「もっと借りるにはシステムの借入れ可能枠を増やすため返済の実績が必要です」と話し込んで、借入金の8割を振り込ませるとかいっていた。

“ 紹介屋 ” というインチキ業者だと、ニュースに度々とり上げられていた。[編者註03-1]

「じゃあ、田中さん」
「ん」
「その方向で、村井さんに電話しときます」
「ちょっとまて」
「いや、仮なんで、仮」
「約束はできない」
「仮ですよ、仮です」
「それに、オマエに説得されたわけじゃない」
「わかってますよ、でも、田中さん、元気でてきたんじゃないんですか?」
「そうか?」

どうも言いくるめられたようで癪なので念を押したが、悪い気はしなかった。

はっきりと返事ができないのは、智子のことを考えていたからだった。

自分の性格上、多分というより確実に、違法営業の風俗店の名義人の店長であっても、やりだしたらそれなりに智子を放置してでも一生懸命になるだろうなとわかっている。

それは智子もわかっているだろうから、もし反対されたらはっきりと断わるつもりだった。

智子には名義人の件は1度だけ話していた。
ダメともいわず、その代わりにいいともいわず、「ふーん」とよくわからない返事をしただけでそれきりになっていた。

智子は違法営業の仕事を心配してるのではなくて、2人の時間はどうなるのかだけを心配してるという様子に見えた。

抑えられていた感情

昼間は寝て、暗くなってから起きて地下鉄の駅へ。
降車駅の改札口を出てからは、駅前広場の外れにある無料送迎バス乗り場の向かう。

臭うような一角に並んだ。
無料送迎バスが到着すると、集団は無言のままノロノロと動きはじめて乗車していく。

送迎バスなど無料で当然、という気前がいいものではない。
無料だからうれしいでしょ、というように押し付けがましく無料送迎バスと呼称されていて、押し付けがましさと合わせてすべてのシートが埃っぽく黒ずんでいた。

無料送迎バスは発車して、車内で会話がされることもなく、やがて倉庫のゲートをくぐり、暗い構内で停車する。

無言のまま降車した者は控え室に向かい、それぞれがタイムカードを打刻して、錆の浮いたロッカーを開けて灰色の作業服に着替える。

いつものベンチに寝転んでいると、作業の開始時間に。
事務所まで受け持ちの割符を取りにいく。

それからは、積み上げられたダンボール箱に向かって、ダラダラと割符の貼り付けをしていく。

全てに貼らなくてもいいのだが、ほかにやることがなくなるから、寝てるかのように貼っていく。

ときどき配送業者がダンボール箱を引き取りにきて、伝票にサインをするときに少しの言葉を発するだけ。

休憩時間となった。
ベンチに寝ころんでいると、派遣バイトが輪になって、延々とぺちゃくちゃとお喋りしてるのが聞こえてくる。

「女ってのはさ」と聞えるところから、今日のお喋りは女について。

「今は彼女つくらないって決めている」と話している鈴木Bには必死さが感じられた。

「いまどきの女ってバカが多いからね」と応じている馬場Aの声はうわずっている。

延々とお喋りばかりしてるベテラン派遣バイトのシルエットは、どれも奇体だった。

極端に痩せた者。
腹だけが突き出た者。
猫背すぎる者。
手足が細すぎる者。
上体が斜めになってる者。
まとまりなく薄毛をなびかせている者。

どこがどう面白いのかわからないが、班長の鈴木Aが「ヒッヒッヒッ」とかん高い笑いをするのが、うつらうつらしてる自分には勘に障る。

次いでお喋りの話題は、日高屋と後楽苑の300円だか350円のラーメンは、どっちが量が多いとか、メンマが太いとか、でも割引券を使えばこっちが20円安くなるとかに移る。

たしか昨日は、あっちの発泡酒が10円安いだとか、こっちの発泡酒が20円高いとか延々と話していた。
50円づつやるから静かにしてろ、と一喝してやりたい。

そして腹立たしさの一方で、どうでもいいくだらないことに対して、大きな声を出したくなるくらいのパワーが湧くようになったんだと気がついた。

無料送迎バスも、錆びの浮いたロッカーも、裾が短い貸与の作業ズボンも、すべて腹立たしくなっている。

ヒロシが言ったとおりに元気がでてきている。
うれしくもなり、拳を握り力を込めてもみた。

握った拳
すべてが腹立たしくなってきた

鈴木Aに肩パンチでもしたら面白いだろうなとも、意地悪い笑いもできた。

抑えられていた感情が、跳ねるようにして放たれてきている。
あれから2年以上が経ったのだ。

飛び降り自殺が意味すること

休憩が終わった。
ゆっくりとやっても割符の貼り付けは前半で完了していたので、今度は剥がされて捨てられた割符を掃いて片付ける。

まだ引き取りされてないダンボール箱を一箇所にまとめた。
いよいよやることがなくなると、余りのダンボール箱をまとめてつくった壁の後ろに座ってボーとする。

外は風が強いのか、鉄骨がむき出しの高い天井のどこかが、ガタガタと音をさせている。

そんな中、これまではボーとしていただけだったが、今はパワーが湧いてきている。

あれから2年が経ったのだ。

2年前の、スカウトをやめるきっかけとなる気が落ちた出来事とは、智子の元ダンナの自殺。
マンションの8階から飛び降り自殺。

離婚したあとに上場企業を退職した元ダンナは、再就職がうまくいってなかったらしい。

それなので、自殺の原因は、再就職ができなかったからとされている。

しかし飛び降りた場所は、離婚するまえに家族で暮らしていたマンションだったことが、自分への抗議も含まれているのを感じさせた。

智子がひと回り以上も年下の若い男と付き合ってると、しかも定職にも就いてない風体も悪い男だと余計なことを息子が話して、元ダンナは『どうしてだ!』と驚いていたとも聞いていたからだった。

智子には抗議も含まれた自殺だと話したが、離婚したのも自分は関係ないのだから自殺したのも関係ないし、子供たちも関係ないと思っているとは言う。

そうはいわれても、元ダンナの自殺は抗議を感じた。
打たれ強い、しぶとい、心臓が強い、と言われるのが自分の唯一のとりえ。

それらが長所だと智子は言ってくれて、元ダンナにはなかった美点だとも言ってくれて、それらは自分にとっては、お洒落でカタカナ職業でスマートな大人の元ダンナと対抗し得る拠り処だったのに。

自殺されたら、拠り処が引きずり取られたかのようだった。
これでは元ダンナの以下じゃないか、と繊細な自分が嫌にもなったら気力が萎えたのだった。

朝方になる。
もう配送業者の引き取りもない。

広い敷地をトイレまで歩くと、倉庫の大屋根の向こうの黒い空が濃紺に淡く変わっていく。

ここで働きはじめた1年前は、この朝の兆しを目にしたときはうっとうしかったが、今は綺麗に感じるのが自覚できた。

元ダンナの自殺から2年以上が経ち、へこんだ気持ちが修復されていたのだ。

抑えられていた感情が沸いてきている。
トイレから出ると、倉庫の屋根の向こうから朝日が輝き始めている。

朝日って眩しいなと眺めていた。
感情は微にわたり細にわたり、放たれてきてきる。

あんなダンボールの壁などつくってサボりをしてる場合じゃないとの気持ちも湧いてきていて、一方でコンビニのバイトの面接ですら通らなかったことを考えると、風俗店の名義人もありなのかと納得はできていた。

名義人には迷いが

帰宅して寝て起きると夕方だった。

智子がウチに来てからは、メシを食べにいこうと、まねき通り商店街のラーメン屋まで歩いた。

風俗店の名義人のことを智子にもう一度は話そうとは思っていたが、今度の土日に小旅行にいきたい、と目尻に小ジワを浮かべてるのを目にすると、やはり2人の時間を楽しみにしているのだと迷いが出てきた。

派遣バイトのままでいいわけないが、今は智子が喜ぶようにしたほうがいいのではないか。
名義人を断るのなら早めにしなければだとも。

無料送迎バスも、錆びの浮いたロッカーも、裾が短い作業ズボンなどは我慢すればいいとも。

まねき商店街のしなびた暖簾のラーメン屋に入った。

壁に並ぶ黄色の短冊メニューを眺めてると、隣の小さなテーブル席では丸椅子に座るサラリーマンの4人組が、瓶ビールをコップに注いで「おつかれさまです」と小さな乾杯をしている。

瓶ビール飲もうかなと、それにチラッと目を向けていると「ああいうの、やりたいんでしょ?」と優しい声。

「えっ」と顔を向けると「やってみたらいいんじゃない」と智子はニコリとした。

– 2017.09.12 up –