刑事の取り調べ


留置場のトイレと自殺

この3号房の鉄格子の窓の向こうの外廊下は、朝方になるとぼやっと明るくなる。

7時の起床の号令がかかるまでは布団の中で横になっているという規則でもあるのか。
皆がそうしているのだから、たぶんあるのだろう。

大分前に目が覚めていたが、時間がわからないまま布団の中でうとうとしているのは落ち着かないものだった。

205番が布団から出た。
トイレに入り便器に座る。
房の隅にあるトイレの壁の一方にはアクリルが嵌め込んであり、中の様子を目視できる仕様になっている。

留置場のトイレ
トイレは房内の一角にあって中が目視できるようにアクリルの窓がついている

すべての用便は、・・・逮捕されてからはトイレにいくことを用便という、その用便は座って行なうのが、ここでの礼儀らしい。

中は狭い。
便器に座るのも小さくならなけばならない。
洋式の便器はオールステンレス製。
突起部がなく、便座や蓋という可動部もない特注品。

突起部がないのは壁面も同じで、小さな手洗いは壁に埋め込まれていて、トイレットペーパーホルダーも壁に埋め込まれていて、壁面の一文字の開口部からはペーパーのみが垂れている。
トイレットペーパーの補充は外廊下側から留置係が行なうようになっている。

ジャーと水が流れる音が房内に響いた。
トイレのドアは薄くてバネ仕掛けの自動開閉式。
ロックなど当然ない。

上部の角が丸くなっているのは、衣類を引っ掛けて首吊り自殺ができないようにしているとの意図がわかる。

その角に丸みがあるドアを最初に目にしたときは、それほど自殺するヤツなんていないだろうと鼻先で笑えたのだが、先週に隣の房で何をどうしたのがわからないが夜中に自殺未遂があったとのことで、今も留置係がパイプ椅子に座り鉄格子ごしに夜通し監視している。
留置されるほうも大変だし、留置するほうも大変だ。

自分は逮捕に備えて心の準備ができていたし、経験者の免疫がついていたので、まだよかったのだった。

昨日の夕食後に入ってきた新入の20代の341番は、房に入れられるとすぐにしゃがみこんで泣いていた。

隣の房の就寝間際に入ってきた新入は、鉄格子ごしに係を呼んで明日は仕事があると訴えて、どうしようもないと無下にされると、家族と連絡をとりたいと必死にわめいていた。

このくらいだったらとした行為で、いきなり犯罪者とされて取り乱しているのか。
バレないと信じていた悪事が、人目に晒されるのが耐えられないのか。
それに比べたら、自業自得だと納得もできている鈍感な自分が頼もしくも感じる。

でも、呑気な考えもしてられない。
今日はどんな調べがあるのだろう。
朝イチからため息がでる。

検身をして手錠に腰縄で留置場外へ

留置場の入口の鉄扉が開く音がして、場内に署員が数名入ってくる様子がした。
もう7時前だ。

ぱぱぱっと蛍光灯が全灯となり「きしょうぅぅ~」と号令がかかった。
布団の片付けをして、掃除と洗面をして点呼のため着座。
すべての房の員数を、留置係と職員が5人ほどで確認して回り「起床時点呼を終わります!敬礼!」と終了した。

朝の官弁が配られる。
運動も終わり、9時を過ぎて、調べで房を出て行く者が続く。
自分もスポーツ刈りの留置係から「332番、調べ」と声がかかった。

鉄格子の扉がガチャガチャと解錠されて房外へ出るとボディーチェック、・・・警察では検身という、その検身をして手錠に腰縄。[編者註39-1]

「手錠よし!準備完了!」と1人の係が声を上げると、もう1人が鉄扉の覗き窓を開けて「332番、出場します!」と外部に声をかけた。

2人揃って「解錠準備異常なし!解錠!」でガチャンと鉄扉が開いて、同時に気合を入れた。

係長と若手と階段を上がり、3階の2番取調室へ。
奥のほうのパイプ椅子に促されて座ると、若手が腰縄の端を窓の鉄格子に結わえて手錠を外して、対面には係長が座った。

「昨日、送検はどうだった?」
「普通でした」
「東京地検はキツイんだってなぁ」
「いえ、普通でした」
「そうか?」
「はい」

そのあと1言2言で、雑談はあっけなく終了した。
まだ何があるのかわからない。
オーナーが実質的経営者だろと追及されるかもしれない。
付け込まれる弱みを洩らさないように、雑談には必要最低限のことしか答えてないつもりでいた。

供述調書を作成する前の聞き取り

若手は退室。
係長はバインダーを手にした。
白紙のコピー用紙が挟んである。

「じゃ、今から調書とるけど、供述は拒否できるからな」
「はい」
「話したくないことは話したくないって言ってもらってかまわないから」
「ええ」
「で、店はいつから営業をはじめた?」
「2月14日です」
「よく覚えてるな」
「ええ」
「なんで覚えてた?」
「なんでって・・・、普通に覚えてました」
「それは、なんで2月14日なのだろう?」
「とくに意味はありません」
「意味はない?」
「ええ」
「2月14日はバレンタインデーだけど、それは関係あるか?」
「いいえ」

ああ、嫌だ。
取調べ室の壁には、擦り傷がいくつもついている。
なにかの染みもある。

「関係ありそうだけどな」
「ないです」
「関係あるだろ?」
「バレンタインデーがどうかしたんですか?」
「うん、男性は気になる日だからな」
「でも関係ないです」
「そうか」
「はい」
「それで、営業時間は何時から何時までだ?」
「10時から24時までです」
「毎日、その時間ぴったりで営業していたのか?」
「はい」
「午後からの営業はなかったか?」
「ありません」

以外に細かいことを訊いてくる。
細かいことは「覚えてません」と答えたほうがいいのか。
頭の中が高速回転して慎重に端的に答えた。

「定休日は?」
「ありません」
「じゃ、半年間ずっと営業していたのか?」
「はい」
「1日も休まずか?」
「はい」
「5月の連休中も営業していたのか?」
「はい」

はい、の言い過ぎか。
よくわかりませんがいいのか。
いや、よくわかりませんじゃ駄目か。
名義人なんだろ、オーナー誰よ、と突っ込まれそう。

「なんで、そんなにも営業していた?」
「商売なんで」
「うん、商売なのだろうけど、えらい熱心だな」
「そうですか」
「客だって入らない日もあっただろ?」
「いえ」
「大雨の日とか、客こないだろ?」
「きましたよ」
「そうか?こない気がするけどな?」
「きました」
「お客さんだって雨に濡れると嫌がるだろ?」
「いいえ」
「普通は、雨に濡れるのは嫌がるけどな」
「それがどうかしたんですか?」

さらに高速回転して、はっと気がついた。
あっぶねぇ。
これは警察の手口だ。

挑発だ。
挑発の手口だ。
うっかりと引っかかりかけた。
さっそく、その手口できたか。

真面目に話すこちらを挑発するために、どうでもいい質問を繰り返しているんだ。
そのうちに、あえて否定してみたり、小バカにしてもくる。
わざと怒らせて、本当のことを話しているのか確かめているのだ。
その手には乗らない、と平気な顔をしてみた。

「休業しようとおもった日はなかったのか?」
「ありません」
「雨の日とか?」
「ないです」
「女の子だって休んだりしないのか?」
「いいえ」
「それでも女の子が少ない日もあっただろう?」
「ええ」
「そういう日は、休業しようと思わなかったか?」
「いえ」
「そうか?」
「はい」
「なんでだ?」
「商売だからです」

いや、まて。
本当もなにも、まだ大したことは話してない。
確かめているのではないのか。

「警告がきてからは?」
「なにがですか?」
「営業はしていたのか?」
「はい」
「閉めた日はなかったんだ?」
「ないです」
「本当にないのか?」
「あったっていえばいいんですか?」
「いや、ウソをいう必要はない」
「・・・」

確かめているのではないということは。
あっぶねぇ。
セーフ。
えらい手口に引っかかるところだった。

あれだ。
カマすつもりだ。
挑発してから。
彼らからしてみれば、最初が肝心なんだ。

刑事は挑発する

あのドアの向こうには、打ち合わせ通りに5人ほどの刑事が待機しているに違いない。

挑発されて苛立ったこちらが、少しでも声を荒げたりしたものなら、あのドアがばたんと開く。

まず1人目の気合の入ったカマし役が「オマエ、なにをさわいでんだぁ!」と怒声と共に乱入してくる。
突然のことに戸惑うが、こちらも応じて一言でも口ごたえしたものなら、ますます相手の術中にはまる。

係長はすっと退室。
これから行なわれることを知らなかったとするためだ。

1人となったカマし役は憎々しく「オイ!コラ!」と「テメェがうるせえからだろ!」と「テメェがふざけてるからだろ!」と「テメェはアタマおかしいのか?」と怒声で突っかかってくる。

「バカなのか!オッ!」やら「日本語わからんのか!」と「泣かすぞ!コラァ!」と罵声を浴びせて、さらにこちらを挑発して興奮させる。

1人目はさんざん焚きつけると、2人目にタッチ交代する。
2人目も全力で「オイ!コラ!」と「だまれ!」と「バカやろう!」と「ふざけてんじゃねえ!」と「わかってんのか?」とひらすら罵声を浴びせる。

またそれが訓練でもするのか、腹に力のこもった大声。
窓ガラスが震えているのではないか。

3人目にタッチ交代してからも、また全力で「オイ!テメェ!」と「ふざけてんな!」と「しっかり話せよ!」と罵声は続く。

もちろん、こちらも怒鳴り返しはするが、大声を出し続けるのは体力がいる。
4人目、5人目と罵声のラッシュが続くと、多勢に無勢で怒声を出す体力もなくなり応じる気力も失せていく。

善良な生活を過ごしている者であれば、10分も罵声を浴びれば気持ちが弱ってくるのではないのか。

弱ってきて抵抗が落ちたとなると、刑事は追い討ちをかけきて、さらに10分ほどは代わる代わる全力で罵声を浴びせてきて「しっかり話せよ!」と「わかってんのか!」と「できんのか!」と「言えるのか!」と耳元でカマされる。

退室した係長はしょんべんでもして、煙草を吸い終えて頃合を見計らって、罵声攻撃していたのには気がつかなかったという顔をして「なんかあったのか?」と戻ってくる。

「いやあ、お互いに少しばかり興奮したみたいで」とカマし役はとぼけて「オイ!今の誰かと調べを交代するか?係長がいいだろ?だったら係長のいうこときけるのか?ほんとだな?」となって、係長は「罪を認めて早くここから出たらどうだ?」となって、自分は「本当はやりました・・・」となる。

「裁判でちがうといえばいいからな」と供述調書はどんどんと書かれる。
いったん調書になったら裁判では覆らないのに。

こっちは経験者で、そちらの御一同の役者っぷりも台本もわかってるんだと吸った息を腹に溜めた。

「警告がきて閉めるつもりはなかったのか?」
「ありました」
「そうか」
「・・・」

いや、ちがう。
カマすつもりではないらしい。
自分だって、とっくに「間違いありません」とも「やりました」とは言ってるし。
神妙に応じているし。
略式起訴の罰金刑だから裁判もないし。

やっぱ挑発の手口ではないのか。
廊下には誰も待機などしてないか。
ああ、自分はビビッているんだ。
ビビッてるだけなんだ。

情けなさでうな垂れたが、ビビッているのを見抜かれたら弱みになる、とすぐに顔を上げた。
落ち着け。
スチールデスクの上に置かれたお茶を飲み干した。

ビビッているのを見抜かれると刑事は仕掛けてくる

バインダーを手にしてメモをしていた係長は、ぱたっ机上にそれを伏せて置いた。
椅子の背もたれが、ぎぃと微かな音を立てた。

「お客さんはどうやって集めた?」
「チケットセンターです」
「それはどういうところだ?」
「割引チケットを置いてあるところです」
「割引チケットって?」
「割引チケットは・・・、割引チケットですけど」
「それはどういうものなんだ?」
「知ってますよね?」
「んん」

係長は微かに頷いた。
じゃ、なんで訊くんだ、と言いたいのを飲み込んだ。
余計なことを話してしまいそう。
こちらからの質問はやめよう。
ただ端的に答えるのに徹しよう。

「チケットセンターか・・・」
「・・・」
「それだけ?」
「はい」
「ほかには、どうやってお客さんを集めた?」
「ほかは・・・、ないです」
「雑誌広告は?」
「やってませんでした」
「インターネットは?」
「やってませんでした」
「ふーん、あとはないか?」
「看板を見てくるお客さんもいます」
「そうか、それだけか?」
「会員もいます」
「会員とは?」
「リピートです」
「どうしてリピートだってわかる?」
「会員証を渡してあるので」

ビビッているのは見抜かれていないはず。
あとは挑発には乗らない。
余計なことは話さない。
質問もしない。

「客引きは?」
「やってませんでした」
「なんで?」
「とくに必要がないので」
「客引きをやっている店もあるよな?」
「あるとおもいます」
「なんでやらなかったんだ?」
「必要がないので」
「なんで必要ない?」
「チケットセンターで手一杯だったので」

係長はバインダーになにやら書き込んでから、後ろの壁面のパイプ椅子に置いてあった15センチほどある厚いファイルを手に取って開くと目を通し始めた。
わずかに険しい表情をして「んん・・・」と小さく頷いている。

これは・・・。
ビビッているのを見抜かれたか。
いよいよアレだ。
豹変するのか。

こっちが挑発に乗らずに坦々としているものだから、一発勝負を仕掛けてくるんだ。
やはり、ビビッているのを見抜かれたんだ。

– 2020.7.25 up –